日本刀の形態研究 第四章 日本刀の発展について 第六節 勝光、祐定、兼定時代(末古刀)

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日本刀の形態研究(十)

日本刀の形態研究 第四章 日本刀の発展について

第六節 勝光、祐定、兼定時代(末古刀)

前代に於いては平和の到来によって刀剣界はやや不振の傾向がありましたが、応仁以後になると、乱世への復帰によって俄かに需要高まり斯業殷賑を極めて各地に名工輩出する事になりました。

応仁の乱は義政の時将軍継嗣の問題に端を発し、それにこの波、畠田両管領家の嫡庶の争いがからまり、天下二分されて細川勝元、山名宗全の両巨頭が各々相率いて互いに鎬を削り京の街を中心に東西に対峙し十一年の長きに亘って戦闘を続けたものです。戦乱半ばにして完全、勝元夫々決した後も尚治まらず文明九年に至り諸将戦に倦み始めて兵を修め領国に帰ったのです。しかしこれ以後足利将軍の威光全く衰え、戦乱は全国に波及して諸将軍互いに境を争い弱肉強食の実力主義発揮の時代となり戦国乱世の出現を見たのは人々のよく知るところです。

此処に戦争に必随する刀剣が盛んに製作され、全国的に良工相次いで輩出するに至ったのは極めて当然です。この時代は応仁に天正に至る約百四十年の長い期間ですから、自らその中に種々の変換が窺われます。第一は文明より明応頃まででして、この期は全国に良工現れる時代、第二期は永正より天文まで、やはり良工の出現時代です。第三期は天正を中心とするもので主として量的に活躍を見たのですが、これより新刀への転換が行われるべき時代にて注目すべきです。国別にいえば備前は依然として伝統の刀鍛冶王国たる貫禄を示し、最も卓れたる刀工を出しています。第一に於ける右京亮勝光、次郎左衛門勝光、左京進宗光等第二期には興左衛門祐定、彦兵衛尉祐定、源兵衛尉祐定等第三期には孫右衛門清光、藤四郎祐定等は最顕われていますが、その他にも良工を多く擁し、質量共傑出した地位を占めているのです。しかし天正年間に長船地方は山津浪に襲われ人家埋没したため頓に衰退してしまったのです。従って新刀期に於いて有名なる刀工なく僅かに萬治頃より七兵衛祐定の一流が栄えるのみでした。

備前に対抗して天下の鍛刀界を二分してその一大中心をなしたのは美濃国関です。この国は吉野朝時代には彼の有名な志津三郎兼氏や直江志津一流、金重、金行などの出たところですが、その後衰退して振はなかった様です。しかし文明以降に至ると漸次台頭し、兼定、兼元等が出るに及んで俄然天下に盛名を得る事となったのです。第三期に入れば関鍛冶は備前を凌がんばかりの勢を示しています。即ち長船一流が天正以後天災のため潰れてしまったのに反して関にあっては益々隆盛を続け次の新刀期にそれ等の末裔が大活躍をなしているのを見るのです。

関兼道の四子伊賀守金道、和泉守金道、丹波守吉道、越中守正俊は山城京都に於いて繁栄し、子孫相継いだのを始めとし、賀州には兼若、芸州に肥後守輝廣、尾張には相模守政常、伯耆守信高、三河に若狭守氏房等あり、何れも一族繁盛を見たのです。その他二流工以下のものには関の流れを汲む者は極めて多く、従来これ等の作品は余り高く評価されていませんが、注目すべきもののある事を私はここに強調したいと思います。

次は相模鍛冶の一流で、正宗一流に対して末相州と名称を以て呼ばれてますが、第一期の廣正、助廣の如き、第二期以後の綱廣、綱家、総宗の如き何れも良工というべきです。なお島田義助一流及下原周重の一族もこの中に包含されてよいものと思います。

その外山城平安城長吉、大和包眞、伊勢村正、豊後平長盛等の一流も文明以後夫々繁栄したる著名刀工の集団です。

以上の如く第一期に於いて最も多く良工の出現を見たのですが、この期に於いてなお注目すべきは刀工が他国に移って鍛刀しているのを見る事です。次郎左衛門勝光、左京進宗光の如きは備前の他に備中、美作、山城、近江等諸々には作品を造っているのを見ます。又山城鍛冶の三條吉則、平安城長吉の如きは夫々和泉、三河へ下っているのです。その他高天神兼明、大和包眞の遠江、和泉に移る例なぞがありますが、山城鍛冶は京に以ける兵火を逃れて他に鍛刀の地を選んだことにも依ります。これは第一に武将の招集によるものですが、この頃より次第に鉄山にて製鉄技術の漸く進んできた事をも関係すると思います。即ち必ずしも鉄産地近くに居を構えなくても刀剣の材料を手に入れられる様になったのです。従って刀工は需要のある便宜の土地に移る事が萬能になったのです。

次に第二期以降は量の飛躍時代です。武将互いに割據し、実力ある者が弱きを併せて、漸次強大になろうとし、絶え間なく行われる戦争の結果刀剣の需要の著しい事この時代の如きはなかったと思われます。従って入念な作品よりも実用本意の刀剣が多数造られたのです。かかる刀剣製作の中心は関であったのでしょう。殊に天正期を中心に今日多く残されている備州長船○○又は二字銘の兼○の作品の大部分はこの種に属するものと思われます。入念な作に対しては備前長船右京亮勝光、和泉守兼定などと官名を切るものや興三右衛門の如く俗名を入れる習慣が出来たのです。又同名がこの時代に俄かに増加しているのも古来の一字相承の風を破るものですが、これ等は祐定とか清光とかいう名前が大量生産の結果一種の商標化となったのでしょう。祐定一族は相協力して備州長船祐定と切られた多くの刀を作り、清光一家は亦備州長船清光の造刀に努めたものと思われたのです。従って一子相伝の祐定、清光のみならず同時代に一族弟子にして同じ名前を用いるものも沢山あったと考えられます。いずれにしてもこれ等は量的な飛躍の著しい時代に起こり来る事柄といわなくてはなりません。

○戦乱時に於ける刀剣の種々相
この時代に戦乱に明け暮れた時代であると共に、その戦闘の方法は古代の様な一騎打式戦法によるのでなく、団体戦が行われ、殊に足軽といえる歩兵部隊が中心勢力をなし、後期元亀天正に至れば漸く鉄砲の使用さえ実行されるに至ったのです。

ここに我々が最多く数えられるものを持っていると考えます。勿論団体戦といっても、近代における科学兵器の整備によって大規模に展開される戦争とは到底比較にはなりませんが、火器の使用によって分散的であると共に団体的であらればならぬ近代式戦争精神はこの時代に萌芽を見たものです。而も火器の幼稚にして兵器の重要部分ならざる時刀と槍は最重要なる武器でなくてはなりません。従って現代刀に最大なる示唆を興りえるものは此の時代の日本刀です。

既に我々は平和時における刀剣の刃文の特徴は複雑変化に富めるに対し、戦乱時のそれは単純固定化するものである事を説きました。この時代の刃文も作品の豊富なるに拘らず大して刃文の種類は多くないといえます。直系統に互の目丁子、及互の目刃を以て一括する事が出来ます。備前備中は直及互の目丁子、山城大和は直及大互の目、関は互の目及直、相模豊後も直及互の目丁子です。他の地方といえども大体上記の中に含められると考えます。而して何れの国のものを不問概して淋しい風情がありまして、沸匂の働きに乏しいものです。実用という目的に集中される所にはさして変化ある刃文というものは生まれないものです。

次に造込みですが、これは刀が武器であるという事に於いて戦時の特色が最も著しく現れるものです。武器を戦闘の目的に添う如く改良するのは極めて短時日になされるのは当然といわなくてはなりません。既に古代に於ける直刀が反張日本刀に変わった事は切るという目的に対して最も効果的になされた改革でした。それ以後切る事に対してこの反する日本刀が専ら用いられてきたのです。古備前、一文字、長光、景光時代全て二尺七八寸の長さのものが普通の寸法とされています。只一文字末期の光忠などに短い太刀が見られるのは大丁子の出現と共にやや平和の影響を受けたかの如く思われます。元冠の頃より長巻が造られる様になりましたが、これは我国に古くより存在した鉾に類するものではありますが、直接には元軍の槍に暗示を得たるものでしょう。殊にそれが団体戦において威力を発するのでこれ以後次第に普及するに至ったようです。短刀は長光の晩手より見られる、殊に嘉元以降短刀作家の現れる事によって時代の弛緩の空気が察せられるのです。これ等は全て無反短刀といわれる細身のものが多く建武頃を界として寸の延びた幅の広い、重ね薄い先反短刀に転換しています。

後者は吉野朝時代の戦乱と共に来る所でして、この頃に至ると太刀も長巻も全て長大なものが造られる様になったのです。元冠を契機として国内の戦闘も漸次集団的となったからでしょう。

次に応永時代には亦短い刀が現れてきます。小脇差の様なものの多いのは平和時代の為です。戦争はなくても、対明貿易において刀剣が重要な輸出品でしたから、刀剣製作地も相当隆盛を続けたのですが、そのような物は革新的な作風を生むには至らない事はいうまでもありません。

右の如く刀剣の造込みは戦争の目的に最敏感で迅速な改革を見るのですが、やはり戦時には長大なものが重んじられ、平和的には短く軽いものが好まれるという事が考えられます。なおこの事は新刀期について見れば自ら明瞭です。

(日本刀要覧より。)

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